今日はうちの末っ子猫マロの命日です。
最後まで猫の威厳を持ち続け、凛々しくカッコよかったマロ…
最後までジタバタとよけいなことをし続けた(ように思う)私…
お別れして1年、昨年の今日の日のことは、はっきりと目に焼きついている。
マロがうちのコになった日
マロは友人のお姉さんの家の物置に、のらさんが産んだ子猫だった。
産まれた5匹中、なぜか里親が見つからなかったマロ…
友人と動物管理局が開催する里親探しの譲渡会に参加したのだけど、ごはんを食べさせすぎたのか、同じ生後3ヵ月の子猫たちの中、2,3倍の大きになっていたマロだけが、別ゲージに隔離されることに (;^ω^)
それぞれの猫には番号がつけられ、里親を希望する人たちは迎えたい猫の番号を記入、締め切り後に抽選される。
実は、この譲渡会を行う管理局の敷地に足を踏み入れたとたん、なぜかものすごく苦しくなり泣けて仕方がなかった。
建物内がどのようになっているのか、ここで殺処分が行われているのかどうかもわからないけれど、慰霊碑が建てられ、とにかく空気が淀んで重いこの場から一刻も早く離れたかった…。
里親の縁はなかったマロを連れ、もう逃げるように友人の車に乗り込んだ。
4匹も5匹も大した変わらないわ!
すでにうちには4ニャンがいたけれど、私が迎えることを決め、そのまま家に連れ帰ったのがマロがうちのコになった日。
天真爛漫だったマロ
マロが来た頃、うちには10歳のユウちゃんと9歳のモモ、5歳のシロちゃんと4歳のコタという4匹の猫がいた。
性格の良い最年長ユウちゃんのおかげで、新入りマロはあたたかく迎えられ、すぐ馴染んでくれた。
そして、シロちゃんはのらさん時代に子猫を産んでいることもあるからか、マロの面倒を本当によく見てくれ、私は楽だったなー
1歳になり去勢手術をした時、出血が止まらない?とかよくわからない理由で、そのまま1日入院することになった。
帰宅してからも呼吸がおかしく、ゼーゼー言うマロが心配で、何度も病院に連絡をしたけど「大丈夫です」の一点張りで…
不信感でいっぱいだった私は以後、この病院と関わるのをやめた。
たぶん生まれつき喘息を持っていたのだと思う。
当時は動物病院ジプシーだったため、喘息の診断がついたのはその後、病院を2回ほど変わってからのことだった。
シャックリのような軽い喘息の発作を時々起こすようになったのは、シニアの年齢を越えてからのこと。
今の先生に出会ってからは定期的に通院し、7年間ほどお世話になった。
時々だった発作の感覚が狭くなり、季節の変わりめなどは頻繁に起こすようになってきていたけど、それでも日常生活に問題はなく、天真爛漫ぶりは健在のまま、マロは元気に過ごしていた。
最期まで猫の威厳に満ちていたマロ
喘息が突然悪化し、呼吸音が明らかに変わってきたのは14歳の誕生日を迎えた直後のこと、そこからマロは1ヵ月半ガンバった。
呼吸すること自体が本当に苦しかったはずなのに、自分でトイレに行く、お水を飲む、爪とぎをする…
そんなマロの姿に何度も勇気づけられた。
モモを看取った時の経験と後悔から強制給餌はしない、食べられなくなったら覚悟をすること、自分でしっかり決めていたはずなのに、生きようとするマロに突き動かされてしまい(人間側の勝手な思いかもしれないけれど)、強制給餌を実行、息を引き取ることになった日までもマロを病院に連れて行っていた。
私って本当に学習しないな…
やはり後悔は尽きない。
酸素ハウスと酸素マスク
マロの闘病が始まったと同時に、まずはすぐに酸素ハウスをレンタルした。
最初こそ入るのを嫌がったけれど、すぐに自分から中に入るようになった。
ここにいると息がしやすいなって、きっと感じたのだと思う。
酸素ハウスには酸素マスクが付属されていた。
トイレから出てきたとたん口を開けたまま、荒い呼吸で倒れ込むマロに、必死で酸素マスクをあて続けた。
しばらくすると呼吸は落ち着き、マロは立ち上がる。
何度もマロの命をつないでくれた大切な酸素マスクだった。
先生に「口で呼吸し始めたら一刻を争うよ」と言われていたため、この酸素マスクがなかったら1ヵ月半は生きられなかったと思う。
息のできない苦しさの中で逝かせるのだけは絶対イヤだった…。
その部分でだけはマロのこと、助けることできたのかなって思っている。
ユウちゃん、モモ、シロちゃんを3年続けて失った時は心が壊れた。
また同じようなことになるのかなと内心恐れていたのだけど、最後まで強かったマロには教えてもらったことがたくさんある。
マロありがとう ^ ^